日別アーカイブ: 2017年2月20日

2017/02/20 三寒四温

只今の時間は、午後9時。

私の部屋は窓を開けてあって、外では少し風が吹いていますが、全然寒くないです。

今日は月曜日で学校が始まったので、いつものように勇輝を送ってきました。

今朝の白浜は、風はほとんどなくてとっても静かでしたが、午後になって、強風吹き荒れる天気になりました。

いや、本当にすごい風だったのですが、これって「春一番」じゃないのか?と思っていたら、東海地方はやっぱり春一番だったようです。

面白いのは、この間春一番だった九州は、今日は「春二番」だったそうで。

そんなのがあるんですねぇ。(笑)

週間天気予報を見ると、明日はまた気温が下がるようで、暖かくなったり寒くなったりが繰り返される季節になったようです。

体調管理が難しくなりますね。

皆さん、風邪をひかないようにお気をつけください。

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2017/02/19 白浜の天草漁

テングサって、知ってますか?

伊豆半島では、古くは江戸時代から天草(テングサ)漁が行われているそうです。

天草は、寒天やところてんの原料となるもので、伊豆半島の中でも特に白浜は一時期全国でもトップクラスの水揚げを誇ったそうで、その量は全国の水揚げ量の40%にもなったとか。

今日の午後、例によって外浦海岸まで歩いてきたのですが、その帰り、時々出会う地元のおじいちゃんと一緒になりました。

場所は、1枚目の写真のところ、板見漁港の近く。

「今日は伊勢えび漁の船が出るんですね?今年の漁はどんな感じなんでしょうね?たくさん採れてるのかな?」

という話から始まり、いろいろと話をしていたら、

「ここの港はずっと前は砂なんかなかったんだよ。あの堤防ができてから砂がたまるようになってな。」

堤防の中の白く見える部分が砂です。

「砂がなかった頃は、でっかい魚がすぐそこで釣れてたもんだ。」

「今は魚が隠れる場所がなくなったから、いなくなってしまった。」

「そういえば、お父さんは何年生まれなんですか?」

「昭和の3年だからもうすぐ90だ。」

「え~っ!!とっても90歳には見えませんよ!」

「若い時は鉱山で働いてたんだけど、結婚してから女房がテングサを採るようになったから、鉱山は辞めて、船に乗るようになったんだ。」

鉱山とは、白浜と河津町の間にある縄地金山のこと。

縄地金山は、江戸幕府が開いた鉱山で最盛期には佐渡の金山と同じぐらいの産出量があったらしいけど、1973年に閉山になってます。

「奥さんは、地元の人なんですか?」

「いや、あそこさ。 え~っと、思い出せない・・・。」

「下田の須崎とか?」

「いや、全然違うさ。 そうそう、三重県だよ。」

「えっ? 三重県から来たの?」

「その当時、僕の嫁さんは稲取で天草漁をやってたんだ、面水でね。」

「面水って、海に潜る海女さんに船の上からポンプとホースで空気を送ってやるやつでしょ?」

「あの頃は、こっち(伊豆)で面水ができる人がいなかったから、三重県から来てやってたのさ。」

「それで、結婚した後は白浜で始めたんだ。僕が船の上で嫁さんが潜って。」

「一日漁をしたら、2万から3万の稼ぎになったんだよ。だから、鉱山はよした。」

90歳のおじいちゃんが若い頃の3万円だから、今の金額にしたら相当な収入じゃないかと。

それをたった一日で!

しかも、漁期は5月から10月までって言ってたので、当然毎日は出来ないでしょうけど、6か月のうちの半分、いや3分の1でも漁に出れれば、かなりですよねぇ。

ただし、相当な重労働だったと聞いたことがあります。

海女さんたちが、船ではなくて海辺から海に入って採っている頃は、体ひとつで海に入って漁をし、潜水病にならないよう1時間半までの時間と決められてはいたものの、その間ずっと採り続けるのはかなり大変です。

船で漁をするようになっても、海で採った天草は水を吸い込んでいるので非常に重く、浜に戻ったら、それを干場まで担いで行くのですが、場所によっては10キロも20キロも入った天草を背中にしょって、崖の様なところを担いで登って行く作業を何度もやって、相当大変だったらしい。

この写真に写っているような網で出来た「すかり」のようなものとか、籠などに入れて運んでいたそうですね。

(ちなみに、この写真に写っているのは天草ではなく、ヒジキです。 天草を干す時もこんな感じでやってます、のイメージ。)

ところで、白浜の年配の人に何度か聞いたことがあるのですが、昔の白浜は天草のおかげでかなり裕福だったらしい。

ちょっと調べてみたら、明治の半ばから昭和30年頃までは白浜の天草漁は村営で行われていたらしく、白浜の天草は品質が良かったので高値で売れたようで、その豊かな資金を使って、明治10年には尋常小学校を建設し、昭和11年には賀茂郡下唯一の講堂も建設したそうで。。。

おまけに、天草の売り上げのおかげで、税金はゼロ、どころか天草漁をやらない村民にまで配当金みたいなものがあったらしいです。

すごいですよねぇ。

ちなみに、天草から作る「ところてん」って「心太」って書くんですよ、知ってました?

そのところてんは伊豆でも作ってて、下田市内や西伊豆では製造販売しているところがあるし、民宿や家庭で作っているところもありますが、寒天は”現在”は伊豆では作っていません。

そう、昔は伊豆でも作っていたそうです。

このブログを書くのにネットであれこれと調べていたら。。。

場所は、石川さゆりの歌「天城越え」の歌詞に出てくる「寒天橋」ってありますよね?

この橋は天城の旧道にあるのですが、その橋から山の奥へ入ってしばらく行ったところに昔は工場があったそうです。

寒天って、冬に雪がたくさん降るような寒いところでしか作れないので、現在は長野県とか関西(京都辺り?)で自然の凍えるほどの冷たい寒気を使って作っているそうですが、昔は天城の山も相当に寒かったようで、だから作っていたんでしょうかね。

今は、天城の山でも雪が積もるような寒い日は少なくなったので、生産の効率が悪くなってやめちゃったのかなぁ?

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